91😕なぜ保育士の給料が低いのか
今回はACとは関係なく、前から感じていたことを書いてみようと思います。
そういえば昨年、ホリエモン氏の発言が話題になりました。保育業界に関与している私には、さらっと流せないものであります。
保育士の給料はなぜ低いのかと問われたホリエモンさんは、「誰でもできる仕事だから」と回答。→炎上
今は処遇改善という手当の形で保育士の給料がほんの僅かではありますが増えています。それにしても低いけど。
私は幼稚園に勤めていましたけど、幼稚園教諭の給料も保育士の給料とさほど変わりありません。幼稚園の方が微妙に多い傾向があるようですが。
さて、ホリエモン氏の発言に関してですが、彼に「誰でもできる仕事」と言われてしまったこと、私は言い返せなくなってしまいます。なぜなら、そういわれても仕方ないよねと思ってしまう現実が保育園にあるから。
保育園があんな風では、ホリエモン氏に言い返すツラはありませんよね、と私は思うのです。もちろん全ての保育所ではありません。
◆ 胸張ってプロと言えるか
ホリエモンさんは、保育士の仕事は誰でもできる仕事だと言いました。「子育てなんて、もとは家庭でやっていたもの。それを代わりにやってるだけでしょ? なら、誰でもできる仕事でしょ?」
そういう意味です。
保育業界において「保育の専門性」と呼ばれる、保育のプロとして必須と言えるものがあります。しかし保育業界には、その必須であるべきスキルが全く身についていないような、その知識さえ持っていないのではと思えるような保育士がいるのも事実なのです。
ホリエモンさんはじめ世の中の方々に、そして誰よりも保育に携わる人間にこそ、この「保育の専門性」が認知されない限り、いつまで経っても保育士の仕事は「誰でもできる仕事」なのだと思います。
◆ 専門職なのに誰でもできる仕事と言われる理由
保育士として=子どもの発達を支援する仕事のプロとして、働くには、様々な知識と経験が必要です。
それはどんな仕事であろうと同じでしょう。しかし保育の専門性は乳児の突然死を回避することの知識や、年齢に合っていそうな活動の計画だけじゃない。
その子どもの今の姿を理解すること。身体的・知的な発達のみならず精神的な発達の段階も理解しなければなりません。
子どもにはこんな場面がよくあります。
・友達が使っていた玩具を取った
・友達を叩いた、噛み付いた
・玩具を投げた、踏んだ、壊した
・椅子の上に立った
・ウソをついた
・言うことをきかない
これらが起こったとき、
「ダメでしょ?!」などと大きな声をあげて怒鳴りつけたり、「そんな事すると◯◯するよ」などと脅したり、「先生そんな子は嫌い」などと子ども自身を否定した言葉を発する保育士がいます。ひどいと尻をひっぱたいたり、手や頭を叩いたりする保育士も未だにいるのです。しかもかなり日常的に……。一緒に働くのが嫌になります。
こんなことをしているのは、残念ながら未だに存在する、保育の専門性が分からない保育士たちです。
こんなことなら確かに「誰でもできる」。
そもそも仕事とさえ言えないのでは?
感情的に怒っているようにしか見えない。
子どもの将来を思う姿勢が見当たらない。
アドラー心理学の叱らない子育てだとか、そんなことを言っているのではありません。ちなみに、アドラー心理学はアドラーの意見というより著者である岸見さんの意見であると捉えています。アドラーがちょっとかわいそうと密かに思っています。
話が逸れました。
上に書いたように突然大声をあげても「びっくりした」という印象しか残らないでしょう。何がダメだったのかを考えることはないか、考えたとしてものちの印象には残りにくいと思います。大人も同じでしょう。そういう人は大人の間でも嫌われてるから子どもの感覚もわかると思います。
それから、脅されても怯えて一時的に言いなりになるだけです。これも話の本質を伝えられないから、恐怖が薄れたころに繰り返されるでしょう。
「こんなことする子は嫌い」
この言葉は禁忌です。プロならありえない。「ダメ」だったのはその子ではなく行動自体です。
尻や頭や手を叩く。
説明の余地もない。
そのあと泣いてるその子を抱きしめてフォローしてるからいいんですか? それでは虐待加害者かDV加害者のようです。
これらの行動から子どもが学ぶことは、大人は怒る、ということくらいでしょう。どうすればよかったのかは学べないのです。ということは次には繋がらないし、心の発達を促すことを無視されているということです。
私たち保育者には、目の前にいる子どもの身体・知的・情緒面の発達の段階を正しく理解、把握し、その子に見合った発達の伸びしろを見つけ、そこへ導く(促す)スキルが求められます。
それが保育の専門性です。
単純に子どもを預かっているわけではない。
私たちが子どもと接するとき、子どもを導く、促すと言った言葉が使われます。
それは例えば、折り紙をやらせるのではないし、運動会の練習をやらせるのでもないし、友達と仲良くするよう指示するのでもないのです。
折り紙がやりたくなるように導き、運動会の練習がやりたくなるように導き、友達と仲良くできるように導くのです。
子どもにとってただやってみたくてやっただけの遊びの折り紙は指先への刺激となりそれは脳への刺激にもなり指先と脳の発達を促す。
楽しそうと思って遊んでいるだけの運動会の練習は全身の刺激となり四肢や全身の筋力、体力をつくる。ゲーム性のある競技なら協調性や競争心を学ぶ。勝ち負けは喜びや悔しさだとか、感情の分化も進めてくれる。
そういう子ども同士の関わりが、友達という存在や、クラスという集団に自分が所属しているという自覚へ導いてくれて、他人と自分が違うことを知り、それぞれが素晴らしいことを知り、自分も人も大切にされる存在なのだと気づくことになる。自分が認められていると実感できるから、だから友達を大切にできる。
こんなことを子どもはもちろん考えてなんかいないけれど、そういう経験が子どもの人格の土台を作ります。
子どもの心の発達を無視した保育……。
「廊下は歩きましょう」
なぜ走ってはいけないのですか?
子どもの心の発達を無視した保育をしているような現場にいる子どもは
「怒られるから」
とでも言うでしょう。
子どもが「これをやったら怒られる」という思考をしている様子は、その子を取り巻く環境が、大人の姿が、垣間見て取れます。
人は孤独を感じることがあっても、健康に生きていくには人と関わらずしては無理です。人間は高度な発達と技術の進歩を得てしても、誰かと関わらないと生きられない。
生きることは人と関わること。
人と関わるには健康な心が必要です。
私たち保育者は、その土台づくりをしているのです。
◆おわりに
そういうことも含めて、家庭でやってた子育てなんじゃないの? と思う人がいれば、まあ、そう思うなら、それでいいです。保育の専門性についての私の説明が下手だったということです。
核家族化や、犯罪の増加による地域の人との関わりのなさ、そういうものがかつて子育ての一端を担っていた時代とはもうちがいます。
子どもは家庭と学校、家庭と塾、家庭と保育所、などと関わる環境が限定されがちな時代です。
私たち保育者はプロとしてやってます。
ただ子育てを手伝ってるんじゃない。
子どもの健康な発達を支援しているのです。
いつか、保育士が、「先生」と呼ばれるにふさわしい人間でいっぱいになるといいです。
そうなれば、あんなひどいことを言われなくて済むでしょう。とりあえず日本の福祉関係全般の給与が低いのも、人材育成からやり直して、なんとかなるといいですな。