80🌑毒親育ちでも気楽に生きられる
「毒親」
「毒家族」
「毒になる親」
……これらの言葉を目にする、あるいは耳にすることが増えましたね。
私と同じように、あるいは私よりもずっと早くに、このようなことでブログを書いている人はたくさんいます。
ブログを見てると、毒親に対してずっと毒づいているだけのブログがあります。笑
きっと、自分が変われないと、一生そうやってイライラしながら生きて行くんだろうな。
解毒のための指南をしているブログ、過去を1つずつ振り返っているブログ、様々ありますけど、みんながそれぞれのところに立っていて、このくだらない世の中を一生懸命に、あるいは仕方なく、生きているのを感じます。
私のブログは、主に自分がどんな状態にあるか分かるように、自分のことを書いています。前は整理をつけるために振り返って色々書いてました。
さて、先程「自分が変われないと、一生そうやってイライラしながら生きて行く」と書きました。
毒親持ちの皆さんが奴等に対して沢山の恨みつらみがある中で、私もその1人として生きていますが、私は毒母に対しての恨みは、今はあまり湧き上がってきません。
落ち着いてるだけかもしれませんが、でももういちいち恨まないかな。でもガッカリした気持ちは多分一生消えない。
これは、私が、そう感じる人だっていうだけ。人によっては、怒りが満ちて一生消えないと感じる人もいると思うし、みんな違うのは当たり前だと思う。
今日私が一番言いたいことは、みんな違うのが当たり前だってことなんですけど、私の周りにはあんまりそれに気づかない人が多いと感じる。
皆さんの周りにもいるかもしれないけど、
「普通はこう」とか、
「常識ってもんがある」とか、
「信じらんない」とか、
そう言う一見ものがわかったような言い方をした自分基準の言葉を口にする人って多いと思う。
一応言っておくと犯罪などの明らかに社会に迷惑を被るタイプのものまで含めて言ってるんじゃない。そういうのはダメに決まってる。普通の会話の中にあるものの話。
他にも
「男の子ってこう」とか
「子どもってこう」とか
「年寄りってこう」とか
それも勝手な思い込みが染み込んでいて、知らず知らずにそういう自分基準の言葉が出てくる人っている。
「あの人はいまだに◯◯だなんて、いったいいくつだよ」みたいな言葉とか、
「あの子はカラオケであんなにはしゃいで、若いよね」みたいな言葉も、
私には違うと感じる。
変な言い方すればいくつになってもバカな人はバカだし、若くても賢い人は賢い。
35歳だってハッチャケる人はハッチャケるし、18歳だっておとなしい人はおとなしい。
人はみんな違うってこと。
歳なんて関係ない。
自分の価値観と違う相手をバカにする対象にしてしまう人が多いと思う。
例えばファストフードが好きな人を、健康志向の人がバカにしてたりとか。
パチンコ行くのが好きな人を、ギャンブル嫌いが見下してたりとか。
ファストフードだって食べたら美味しいかもしれないし心が満たされるかもしれないし楽しい食事になるかもしれない。
パチンコだって自分の稼いだ金の中で節度を守って楽しむ分にはとてもいい娯楽なのかもしれない。
でもそれをバカにしたり見下したりする人は、頭と心が凝り固まってる。それによって被害を被った過去があるならまだしも、誰かから洗脳されてるだけの可能性もある。後者は厄介。生きづらさを生じるから。
そういう風にバカにしたり見下したりする人は、みんながそうとは言わないけど極端な思考の持ち主だと思う。
ファストフードの件なら食べすぎると健康に悪いのにそんなもん食ってるなんてバカだろ、とか。
パチンコの件ならそんなもんに金使って借金地獄にでもなったらどうするんだバカだろ、とか。
実際にファストフードの食べ過ぎて肥満になって糖尿になって歩けなくなったら、私もそればバカだなとは感じるし、
実際にパチンコのやり過ぎで借金にまみれて自己破産とかしたら、私もそれはバカだなと感じるけど、
実際にそうなってないなら、そうならないように上手にやりくりしてるなら、いいじゃんそれで。
そういう風に人の考えを受け入れたり推測したりすることができないから、毛嫌いしたりバカにしたりするんだと思う。頭と心が凝り固まってるから。
人はみんな違う。
中には本当に何にも考えてない人もいるだろうけど、バカなところを持っていても、まあどっかしらいいところとか持ち合せていたりたりする。
そういう風に捉えられない。
価値観が違うだけ。
年齢とかも関係ない。
立場とかも関係ない。
そういう風に捉えられない。
そういう風に捉えられれば、ひとはひとだし、自分は自分だし、いちいち他人にイライラせずに生きられる。まあいっか(^^)って思える。何度も言うけどそれで被害を被ってないならね。トラウマとかってやつもあるし。
この世の中には多分、
「普通」とか
「常識」とか
そういうものは存在してないと思う。
職場ごとに「常識」は違うし、
1人の人間ごとに「普通」っていう感覚も違う。
ただそういう中で、まあまあ上手に人付き合いしていくし、たまに似てる人を見つけて仲良くなったりもするし、ぶつかったりもするし、それで普通。
許せないと思う相手が何故か多い人や、
理解できない奴ばかりだと感じる機会が何故か多い人、
または、関わりのある人間のほとんどを見下しているような気が自分でしている人は、
自分の中の価値観が、つまり頭と心が凝り固まってるせいではないのか。
自分の考えは、自分の中だけで貫いたらいい。それは自分がどんな人間であろうとも自分の自由だということだし、人も人で自由なのだ。まあそりゃ仕事においては難しいこともあるけどさ。私が言ってるのは「生きづらさ」の話。
生きづらさを生み出しているのは、自分の中にある価値観。もっと言えば悪く出てるこだわりの部分。
その価値観が誰かから植えつけられたものであったとしても、これに気づけば変えられるよ。 んん ……変えられる、というより上書きする事はできる、と言った方が正しい気がするけど。
毒親に育てられた人でも、毒までいかなくても考えの偏った親に育てられた人も含めて、その、「変な」親から植えつけられた「変な」価値観はやっぱり根深く自分を巣食っているから、100%矯正することは多分不可能な気がするけど、それが「変だ!」と気がつく能力があるなら、あるいは気がつく機会が偶然でも得られたなら、変えられるよ。本当の自分が感じる心地よさを、上書きすればいいから。誰かから強制された生き方を、やめたり変えたりすればいいんだから。
この世の中が、というか日本という国が、もっと変わったらなあ。互いの違いを受け入れられる社会なら。これもやりやすいのにね。
まあ、日本が集団意識や謙遜意識の塊だからこそ、今の日本があるのかもしれないから、……まあいっか(^^)