本当の自分 〜脱・AC〜

性格習慣病。アダルトチルドレン(AC)を克服しようと奮闘する人のブログ。

43🌸本当に好きか、ただの依存かわからないとき

f:id:yum_yum_y:20170613204024j:image人間誰しも、自己愛がある。

誰かを愛することは、相手がいなければできないように思う。

誰かに依存することも、相手がいなければできないように思えるが、実は一人でやっているものだと思う。

アルコール依存にしても、回避依存にしても、更には恋愛依存や共依存までもが、一人でやっていると思うのだ。

 

アルコール依存においては一見、納得しやすいかもしれない。対象が人ではないからだ。例えが薬物依存でもいい。アルコール(や、薬物)と当人を「2人」という見方はあまりしないだろう。そうなれば、「一人でやっている」という考えは分かりやすい。また、回避依存においては、「親密になることを避ける」ことをする依存であるから、これもまた一人でやっているというのは何となく受け入れられるだろう。

 

では、恋愛依存や共依存が一人でやっている、というのはどう思うだろうか。どちらも人間相手ありきな依存に思えるだろう。しかし私には、それは一人でやっている「独り相撲」にしか見えないのだ。

 

恋愛依存者は、常に恋愛をしている。恋人を切らすことがない。恋人を切らさないということは、少なからず「モテる」人なのだろう。しかし、その「モテ」は種類を選ばない。その人自身が積み上げてきた人間性のみをもってしてモテているわけではなかろう。

容姿はどうだろうか。清楚にしても、大胆な露出が多いにしても、異性が寄ってくれば「モテ」はある意味成立するだろう。

はたまた翻弄する、できるという「知能」はどうだろう。色気ある熟女キャバ嬢なんて記事を読んだ。バツイチのアラフォーで決っして店のナンバーワンではなく派手な存在でもないが、確実に一定の客を保っている。彼女は年齢的にも結婚について客から聞かれることがあるそうだが「バツイチなの」とは言わないらしい。「一度結婚をしたのだけれど、旦那がDVで離婚したの…。だから今も男の人は少し苦手」と返答する。すると客は、「放って置けない」と彼女の元へ通うようになるのだとか。これは商売の話だが、プライベートでも十分使える手だ。

あの手この手を駆使する。容姿も知能も年齢も体型も、術を知っている人間にとっては「モテ」を手に入れる武器になる。そうやって恋人を切らさない。

その傍若無人な「モテ」は、本人が意識している場合と無意識下の場合がある。前者は悪女に見えるが後者はむしろ天使にさえ見えることもあるだろう。しかし顕在意識であるかどうかという問題なだけで、元は同じである。

 

共依存者はどうだろう。それこそ一人ではできないように思われないか。共依存の特徴は、相手に尽くすことである。保護者のように身の回りのことや金銭についてまでもあれこれ手を焼いてやり、「この人の理解者は自分だけだ」と思いせっせと尽くす。時には「これは間違っているのでは」「愛されていない気がする」などと思いながらも限りを尽くす。到底「一人でやっている」ことには見えないだろう。

 

しかし考えてみれば、共依存に関しては、その全てが相手のためになっているだろうか。何でも世話を焼いて、相手は自立できるだろうか。しかも、それほどまでに世話を焼いてもらうことを、相手は望んでいるだろうか。もしかすると、それは「押し付け」になってはいないだろうか。「あの人にはこうしてあげた方がいい」「2人でうまく生活していくために」「この方が相手のためだ」とせっせと世話を焼いて、相手は本当にそれを望んでいるだろうか。

 

親子の共依存で例えれば分かりやすい。過保護な親を、子はどう思うだろうか。幼い頃はいいだろう。愛に満ち溢れたような空間であろう。それが大人になったらどうか。子どもが自身の自我に気づいてしまった後は、窮屈以外の何でもないのではないか。「押し付け」になっていないだろうか。

 

これが、恋愛関係の共依存となると、また少し話の幅が変わってくる。

例えば「世話焼きの彼女」と「自立型の彼氏」というケースなら、「俺が望んでるのは母ちゃんじゃない……」となるかもしれない。別れも近いだろう。これは親子の共依存と似ている。

では「依存者(アルコールやDV)の彼氏」と「共依存の彼女」というケースならどうか。これは、『鍵と鍵穴』と呼ばれるケースである。先ほどの噛み合わないカップルと違い、むしろとてつもなく惹かれ合う。依存者と共依存者は、自身の「自己愛」を認識するのにこの上なくぴったりな人間同士なのだ。

 

ここで、先ほどの恋愛依存に戻ろう。恋愛依存者は恋人を絶やさないと書いた。ではなぜ、そもそも恋人がそんなにも必要なのか。「さみしいから。」簡単な答えが出るだろう。しかしそれだけではない。恋人の存在でがあることで「自分を認識できる」という一種の快感とも取れる心の安定を求めているのだ。恋愛依存ではなくアルコール依存、薬物依存はそれこそ分かりやすく「快感」や「心身の安定」を得ているであろうが、恋愛依存者はその快感を恋人によって得ている。「恋人がいる自分」「モテる自分」「恋人に愛されている自分」そんなようなものを、ひと時も逃すことなく感じていたいのだ。

「感じていたい」というのは少し違うかもしれない。おそらく当人の深層心理としては「感じていなければ苦しい、辛い」そんな感覚なのではないか。辛く苦しい事態を避けるために、常に恋人の存在が必要なのである。不思議に思うかもしれないがこれは、悪女のみならず天使にしても同じなのだ。顕在意識があるかないかと言うだけで、深層心理は同じなのだ。

 

アルコール依存やDVをはたらく男はどちらも「依存者」である(アルコール依存にしてもDVにしても男女は関係ないがここでは例えばの話である)。依存者の心には、何かの対象に依存することで「自身の存在を確かめたい」という欲求が隠されている。もちろん当人は「欲求」という認識はしていないことも多いだろう。初めからわかっていたら正攻法でいくと思う。自らのそんな欲求に気が付いていないからこそ、よく分からなくて、ひっ絡まって、もがいた挙句に辿り着いた先がアルコールや暴力なのだろう。おそらくそれまでの人生で「自分の存在を認めてくれる」人に巡り会えなかったのだろう。あるいは、一番認めてほしかった相手に、認めてもらえなかったのだろう。まあ、かわいそうな人だ(断っておくが薬物依存やDVなど、犯罪行為そのものを擁護する気は一切ない)。

 

ここまでくると、見えてくるだろうか。

恋愛依存は「依存者」の類に入る。恋愛依存者は自分の満たされない深層心理の部分を無意識下に満たしたいがために、恋人を、得る。

また、共依存者も同じくして、人に尽くすことで自分の存在意義を獲得できる。心を傷つけられても、怪我を負わされても、人に尽くさなくては生きている心地が味わえないのだ。

 

恋愛依存も共依存もまるで相手ありきのようだが、全く違う。全ては自分の奥深くに根付く、欲求を満たすための行動に過ぎないのである。

 

 

 

前振りが長過ぎたが、本題である。

 

「本当に好きか、ただの依存か」

 

前振りからの理論で言えば簡単なことである。本当に好きならば、相手を尊重できる。相手を思いやることができる。それは「押し付け」ではなく、相手が真に望むことをしてやることだ。誰かとともにいれば、価値観の違いは当然生じるだろう。価値観の違いをどう埋めていくかは、鈴木大介さんの言葉を借りればお互いが「お願いする立場」なのだ。お願いなどと言うと一見意思が弱そうな人間に感じられるがそれは違う。相手を尊重するからこそであり、それが分からないうちは自己の欲求のためにしか動けていない。つまり、本当の愛情ではないのだ。ただの自分勝手か、押し付けなのだ。

 

「本当の愛情ではない」それは依存者の内部とも重なる。もちろん、本当の愛情ではないのに恋人がいる人の全てが「依存」なわけではない。がしかし、自分の中に「自分は本当に恋人を好きなのだろうか、もしかすると依存しているだけなのではないか」と自身に思うところがあるならば、一度考えてみると見えてくるのではないだろうか。

 

本当に好きか、ただの依存か……。

 

人間誰しも、少なからず誰かに何らかの形で依存しているものだが、それは人間社会に生きる私たちにおいて必要な依存と、自己愛のための依存が存在しているのだろう。その二つをコントロールできなかったとしても、認識できるようには、なりたいと思う。