4🦋 その1 私の生い立ち・人生 〜幼少期から小学校〜
関東某所、高校の同級生同士である両親が成人式にて再会、付き合い始め、駆け落ちで逃亡。父の中学時代までの地、関西へと逃げる。
関西にて入籍。一年後、妊娠を機に実家に戻る。
実家の近く、厚生病院にて女児出産。
それが私だ。
生まれてからは父の実家で同居。しかし姑と母のうまが合わないことで、すぐに父の実家を出て市内にアパートを借り、親子3人暮らしが始まる。
ここまでは昔父から聞いた話。
ここからは私自身の記憶。
3歳から記憶がある。
3歳、就園前。
地域の3歳児教室に週一で通う。
確か水曜日だったか。
その教室で生涯の友となる女の子と出会う。
ーーこの頃すでに虐待は始まっている。しかしそれが虐待であることは、28歳になるまでよくわからずにいるのである。
4歳、幼稚園。
叩かれる、怒鳴られるは常。
幼稚園のお迎えの際、私に叱りつける母を見て、友人の母親は
「こんなに小さいんだから、そんなに怒ってもまだわからないんじゃない?」
と言ったところ、うちの母は
「でも、わかるんだから、できるのにちゃんとやらないんだから」
「このくらいはできないと」
と言っていたという。
これは私が大人になりアダルトチルドレン(AC)として人生に躓き、悩み倒していたとき
「うちの母親がこんな話してたよ」と友人が教えてくれたこと。
当時、母の知り合いは
「あなたの子育ては間違ってると思う!」と母に言い放ったそう。それは母から聞いたことがあった。
年長の時は、クラスの子がかけ算九九が言えるようになったと知り、母は私にも暗記をさせた。それはいいのだが…
風呂の中で一段ずつ覚える。その日のノルマが言えないと、風呂から出してもらえない。のぼせてくるが、出してもらえない。…死んでまうやろー。
6歳、小学校低学年。
虐待はよりエスカレートしていた。
弟が生まれた。
自分ていうのもなんだが成績はとても優秀。運動もかなりできる。先生たちは驚いて褒めたり可愛がったりする。
家庭訪問があったときには、どれだけ担任が私を褒めても、母はいやいやこの子は何にもできないどうしようもない子なのだと言って曲げず、いかに私が「できない子」であるかのエピソードを語り始め、担任を苦笑いさせ、私には恥をかかせた。いつものように。
同じ頃、父がギャンブルにハマり借金を作る。母はその返済と生活資金の補填のため夕方から明け方までファミレスのパートに出るようになった。
それに伴って、母と家で接触する時間が減ったことで、虐待を受けることは減った。むしろ私は、母に変わって弟の面倒をみたり夕食を作らなければならないことに喜びを感じていた。
「お母さんの役に立てる!」
=認めてもらえる!!と感じていた。
10歳、小学校高学年。
反抗期。それまで真面目だったのが一転する。成績優秀だったが勉強はほとんどわからなくなった。クラスの子をいじめたり他にも色々怒られるようなことばかりするようになってしまった。
2 〜思春期〜に続く