適応障害・うつ病・双極性障害2型の記録、アダルトチルドレン。(旧,本当の自分 〜脱・AC〜)

28歳で発症。アダルトチルドレン・適応障害・うつ病・双極性障害2型、診断を受けた時の記録や、体験談を書いています。性格習慣病。アダルトチルドレン(AC)を克服しようと奮闘する人のブログ。

97☘️毒家を出て8ヶ月


どうも。ACです。


最近は新しい仕事が楽しいです。
あんまりブログ書いてない。


この前友達の家に遊びに行きました。
その友達はとってもいい人で、そのママもいい人で、友達親子にはよくしてもらってて私の大切な人たちです。


今、毒親の元から逃れ一人暮らしを初めて8ヶ月くらい経ちます。友達のママに「お母さんには会ってるの?」と聞かれました。今年はまだ一度も会ってないことを話すと、「じゃあお母さんは寂しいねえ」と言われました。まあ、その通りですね。


友達のママは、私が母とうまくいってないことは知っていますが、逆に言えば、そのくらいしか、知りません。友達は詳細を知っていますけど。


こういうとき私はいつも、後からモヤモヤが始まります。苦しくて聞いて欲しい気持ちと、こんなことは簡単に言える話ではないと思う気持ちが混じり合って、必ず気持ちが沈みます。


母のことを忘れている間はいいんです。元気。よく喋るお調子者といった感じ。それがひとたび思い出すと、こうやって沈み込む。


思い出した瞬間、ずしっと気持ちが沈むのですが、その瞬間は、『なぜ私は母と、今こんな状態になったんだっけ』だなんて思います。


あんなことがあったのに忘れてしまうなんて、不思議だと思うのですが、無意識にこうして忘れ去ってしまうくらいのレベルなのだろうな…とも考えます。


今はもう鬱じゃないし、そろそろ、自分の中でもう少し整理をしてもいいのかな、、、と最近は思います。


あの時は気付いたり諦めたりしただけなので、残っている苦しみは対処されておらず変わらずに、ひたすらに苦しいだけなのです。思い出してただ苦しい。ただ苦しいだけなのだけれど、何度繰り返されてもそれが薄らいだり和らいだりすることも特になく、ひたすらに、きっかけとなることが起きるその都度、沈み込む…要は、苦しくなるだけ。。


自助グループとか調べました。


だけどそういうのを調べてると、鬱の時の感覚が蘇ってくる。。。考えるのをやめてしまいます。


…今はまだ早いのか。
…逃げてるだけなのか。


今は、自助グループとか、何かを考えるの辞めました。考えてるとそのうち自分が崩れていくのが見えてる気がして怖いから。また鬱に戻りたくない。


今は生活も仕事も楽しいし、責任あること着実に成し遂げていきたいから、この大切な時に鬱になっては困るから、考えるの辞めました……。


こうやってずっと考えないで過ごすのかな。
後から後悔するようなことにならないかな。
それとも、この苦しみを解きほぐすための機会が、くる時には来るし、来ない時には来ない、そういうものだったりするんだろうか。


人生、成るように成る。
その通りなんだろうなと思うけど、
成るようにしか成らない……という言い方をした場合、それは、、、どうかな。


今までのことは確かに諦めた。


でも、これからのことまで諦める必要はないよね、多分。


何かを思い描けば、成るように成る。
諦めてしまえば、成るようにしか成らない。


かな。

96☘️私の問題点


どうも。ACです。
新しい仕事が始まって3週間経ちました。ここの職場の人はやっぱりみんないい人で気持ちよく働けてますが、私の白黒思考は相変わらずなのでちょっとのミスで激しく落ち込んだりしてます。でも、楽しくやってます。






気づいてたんですけど、改めて最近、よく考えることがあります。それは私の問題点の一つについてです。



いつも過度な期待を受けるプレッシャーで、メンタルが荒れて、ミスった時に「ほらやっぱり…」と自分に絶望する。



私は第一印象で相手に過剰に期待されてしまうことが本当に多くて……。何にもしてないのに褒められたり、よく分からないことをポンと任されそうになったりして、何をそんなに、買いかぶり過ぎだよと感じてソワソワしてきてしまう。毎度プレッシャー過ぎて堪らないです……。




初めから何でもできるわけないし、そりゃ慣れればできるけど周りより早い段階で多くの責任負わされることが多くてメンタルが追いつけない。実際に有能で、初めから何でもそつなくこなし仕事ができるタイプなら別にそれでいいけど私はそうではないので。断る勇気も必要なんだろうな…。



分からないことや知らないことはもちろん聞きます。教わったことでも自分の動きが安定するまで確認します。教えてもらおうとする姿勢をなくしたことはないです。私が自ら「何でもできますオーラ」出してるつもりは一切ないけど何故かそう思われてしまってマジでプレッシャーハンパない( ; ; )



そういう中でうまく立ち回れなかったりミスったりしたときの、ガッカリが読み取れる相手の表情は、私の認知の歪みのせいなわけだけど、でも心に刺さってしょうがない( ; ; )
「ほら、私は別にできるタイプとかじゃない、こんなモンなんだって( ; ; )また人から嫌われてしまうかも」ってなって心が爆発しそうになる……。







「心が爆発しそうになる。」







やっぱり私は、ミスが異常に怖いんだなと改めて思います。ミスが怖いというか、人からガッカリされるのがマジで怖い。私の人格に染み込んだこの認知、直していきたいけど、結構難しい……。



ミスをした自分をそのまま認められればいいんだけど、どうも、「所詮私はこの程度の能力なんだ」と感じて自分を責めたり恥じたりする感情が勝手に湧いてきて、自暴自棄みたいになることがあります。

または、ミスしたこと自体を忘れ去ろうとしてしまっていることもあるように思います。そうすれば上のように情緒面が荒れることはなくて済むけど、ミスがその後に生かされることもありません……。








ミスと言っても大きなことから小さなことまであると思います。小さなミスなら後者でもいいんじゃないかと感じますが、小さなことでも似たようなミスが繰り返されることを私は恐れてしまいます。


「あいつ、いつもああだよな」
「所詮、その程度なんだな」


って、どこかから聞こえてきます。



周りの人に失望されるのを恐れすぎているのか、そのどこかから聞こえてくる声は、他人の声なのか自分自身の声なのかよく分かりません。









実際、初めての業種なのに、新規オープン店舗の責任者をオープン時から任されそうになったりするのは何故?? どうすればこんなに過度に期待かけられずに済むのか知りたい。。。人から買い被られないようにする方法知りたい……。



でも、もしかしたら、自分でタネを蒔いてるのかな。


初めて会う人にガッカリされるのが怖いから、すごく気を使って丁寧にし過ぎたりするから。


第一印象だけがやたらといいのなら、誰かさんと同じだな……。


それなら実力をつければいいのだけれど、その思いが行き過ぎるとまた完全主義に突っ走って人生崩壊するし、ありのままでいいと思うように心がけても自分への失望感の消し方が分からなくてメンタル荒れるし、どうすればいいのやら(´・_・`)









アレルゲンと距離を置いたことで、この頃のメンタルは安定しているけれど、問題はここからだな。自分自身のことだから、自分で自分を変えていかなきゃ。難しいな。

95☺️またいい人たちに巡り合ってありがたい


新しい仕事が始まって、とりあえず3回出勤しました。ここが始まるまでの繋ぎで行ってた保育園の人たちもいい人ばっかりだったけど、今のところもいい人たちにばっかりや!!ホントに恵まれてる( ´ ▽ ` )ありがたいですね。


みんな優しく親切に教えてくれるし、職場の「独自の常識」が無いからそういうものを押し付けられたりもしないし、仕事は無理せずじっくり時間が取れるし、残業しないで済むようにみんなで工夫して協力し合ってるし、うわべだけの集まりじゃなくてちゃんと「仲間」って感じがするところがすごく好きです。お昼ご飯みんなで一緒に食べてても楽しいと思えるし(^^)変に気を使わなくていいさっぱりした人たちの環境だから、いい意味で気楽に働けます。


仕事内容はまだまだこれから覚えて行く感じですけど、今までやってきた仕事のスキルが生かせるし、だいたいの感じはわかります。様々な障害のある子どもたちの支援をするのですが、障害に対する支援の知識が少ないので、これからもっと勉強していきたいと思います。


子どもたちは、やっぱり みーーーーんなかわいい。それぞれの気持ちや発信をしっかりキャッチして、寄り添える人になりたいです。ありのままでいい、人が自己肯定感を持って世に出られるようにすることが私の願いです。そうした人々は、どんな困難が訪れても、最終的には幸せを見失わずに済みます。私のちっぽけな願いと行動が、少しでも誰かに役立てばいいなと思って、新しい仕事も頑張ります。


ただ社長がクソでしたけど、もう、なんか、いいです。全てがうまく行くはずはないし。笑
求人票と実際の雇用契約がずいぶん違いましたし、言ってることがコロコロ変わるし、こんな短期間にも口先ばかりだったし、色々あるけど。思いやりのない人、誠意のない人は嫌いです。そのうち責任者になったら、同僚の皆さんを守ります。


いろいろ、頑張る。

94🍀新しい仕事が始まる


明日から新しい仕事が始まります。
1月末で保育園を退職しました。


保育園は、新しい仕事が始まるまでの繋ぎのつもりでやっとの思いで見つけたところでしたけど、繋ぎなどという言い方をするのは申し訳なく思うほどよくしていただきました。辞めてからも連絡をもらって、いい人達に出会えてよかなあ。あの場所にいた子ども達が健やかに育つことを祈ります。


新しい職場の人たちも温かい雰囲気で、仕事内容もやりたかったことなので楽しみです。
社長はこの半年の間で言うことがコロコロ変わっていて若干不信感がありますが笑、助けてもらってよいと学んだので何かあった時には同僚の皆さんに助けてもらおうと思います。


昨年あった色々なことが、学びとなってこれからが穏やかな日々になるように、私が変わっていこうと思えます。「ねばならない思考」は辞めよう。自分で頑張りすぎるし、人にも求めすぎる……。おそらく、それが変わるだけでも、随分と穏やかな毎日になるのだろうと思います。


これから始まる仕事のために、新しいアネロのリュックも買ったし、お弁当の作り置きもしたし、お弁当箱も買ったし、この前行ったユニバでスヌーピーの可愛い縦長の缶買ったから鉛筆立てにできるし、あとスヌーピーのミニマスコットもあるし!!!よっし!!!頑張れる(°▽°)!!!


楽しいことや、気持ちを掻き立てられるようなことがたくさんあると思うし、困難なことや嫌な思いをすることもあると思うけど、またここにツラツラ書きながら、これからも仕方なく、楽しく、テキトーに、生きます_(:3 」∠)_

93😦車上荒らしにあって死にたくなった妊婦の増田さん

あの人心配。
何がって、リュックを盗まれて悲しい思いをしてること…じゃない。
一つの事柄から、自分を責めすぎること。グレーが許せない思考が垣間見れること。
鍵をかけなかったのが悪いなんてディスりとか、エコーは病院でまたもらえるよなんて励ましとか、そんなことは論点ではない。多分、それ以前に、あの人は自分が気づいていないよくない自動思考を持っている。だから、死にたくなる。だから、あの人心配。気づいて、直さないと、今回以上の事柄が起きたとき、本当に人生が終わりかねない。自分で終わらせる可能性があるから。ま、釣りじゃなくて本気で言ってるんなら、の話だけどね。

92😍紅ショウガ天柿ノ種揚

うーーーーまいおかし!

紅ショウガ天柿ノ種揚!!

マツコの知らない世界で観たけど
ホント美味しい!






パッケージこれ


袋開封してしまった





中身はこんなやつで





食感はサクふわ系




ふわっとサクッと紅ショウガ天っぽい!

紅ショウガの香りと、しょっぱくてすっぱくてほんのり甘い味がまじうま!!





美味しくてびっくりした〜
ACと全然関係なかった〜(°▽°)

91😕なぜ保育士の給料が低いのか


今回はACとは関係なく、前から感じていたことを書いてみようと思います。











そういえば昨年、ホリエモン氏の発言が話題になりました。保育業界に関与している私には、さらっと流せないものであります。


保育士の給料はなぜ低いのかと問われたホリエモンさんは、「誰でもできる仕事だから」と回答。→炎上


今は処遇改善という手当の形で保育士の給料がほんの僅かではありますが増えています。それにしても低いけど。


私は幼稚園に勤めていましたけど、幼稚園教諭の給料も保育士の給料とさほど変わりありません。幼稚園の方が微妙に多い傾向があるようですが。



さて、ホリエモン氏の発言に関してですが、彼に「誰でもできる仕事」と言われてしまったこと、私は言い返せなくなってしまいます。なぜなら、そういわれても仕方ないよねと思ってしまう現実が保育園にあるから。


保育園があんな風では、ホリエモン氏に言い返すツラはありませんよね、と私は思うのです。もちろん全ての保育所ではありません。











◆ 胸張ってプロと言えるか

ホリエモンさんは、保育士の仕事は誰でもできる仕事だと言いました。「子育てなんて、もとは家庭でやっていたもの。それを代わりにやってるだけでしょ? なら、誰でもできる仕事でしょ?」
そういう意味です。


保育業界において「保育の専門性」と呼ばれる、保育のプロとして必須と言えるものがあります。しかし保育業界には、その必須であるべきスキルが全く身についていないような、その知識さえ持っていないのではと思えるような保育士がいるのも事実なのです。


ホリエモンさんはじめ世の中の方々に、そして誰よりも保育に携わる人間にこそ、この「保育の専門性」が認知されない限り、いつまで経っても保育士の仕事は「誰でもできる仕事」なのだと思います。








◆ 専門職なのに誰でもできる仕事と言われる理由

保育士として=子どもの発達を支援する仕事のプロとして、働くには、様々な知識と経験が必要です。


それはどんな仕事であろうと同じでしょう。しかし保育の専門性は乳児の突然死を回避することの知識や、年齢に合っていそうな活動の計画だけじゃない。


その子どもの今の姿を理解すること。身体的・知的な発達のみならず精神的な発達の段階も理解しなければなりません。


子どもにはこんな場面がよくあります。

・友達が使っていた玩具を取った
・友達を叩いた、噛み付いた
・玩具を投げた、踏んだ、壊した
・椅子の上に立った
・ウソをついた
・言うことをきかない


これらが起こったとき、
「ダメでしょ?!」などと大きな声をあげて怒鳴りつけたり、「そんな事すると◯◯するよ」などと脅したり、「先生そんな子は嫌い」などと子ども自身を否定した言葉を発する保育士がいます。ひどいと尻をひっぱたいたり、手や頭を叩いたりする保育士も未だにいるのです。しかもかなり日常的に……。一緒に働くのが嫌になります。


こんなことをしているのは、残念ながら未だに存在する、保育の専門性が分からない保育士たちです。


こんなことなら確かに「誰でもできる」。
そもそも仕事とさえ言えないのでは?
感情的に怒っているようにしか見えない。
子どもの将来を思う姿勢が見当たらない。


アドラー心理学の叱らない子育てだとか、そんなことを言っているのではありません。ちなみに、アドラー心理学アドラーの意見というより著者である岸見さんの意見であると捉えています。アドラーがちょっとかわいそうと密かに思っています。


話が逸れました。

上に書いたように突然大声をあげても「びっくりした」という印象しか残らないでしょう。何がダメだったのかを考えることはないか、考えたとしてものちの印象には残りにくいと思います。大人も同じでしょう。そういう人は大人の間でも嫌われてるから子どもの感覚もわかると思います。


それから、脅されても怯えて一時的に言いなりになるだけです。これも話の本質を伝えられないから、恐怖が薄れたころに繰り返されるでしょう。


「こんなことする子は嫌い」
この言葉は禁忌です。プロならありえない。「ダメ」だったのはその子ではなく行動自体です。


尻や頭や手を叩く。
説明の余地もない。
そのあと泣いてるその子を抱きしめてフォローしてるからいいんですか? それでは虐待加害者かDV加害者のようです。


これらの行動から子どもが学ぶことは、大人は怒る、ということくらいでしょう。どうすればよかったのかは学べないのです。ということは次には繋がらないし、心の発達を促すことを無視されているということです。











私たち保育者には、目の前にいる子どもの身体・知的・情緒面の発達の段階を正しく理解、把握し、その子に見合った発達の伸びしろを見つけ、そこへ導く(促す)スキルが求められます。


それが保育の専門性です。
単純に子どもを預かっているわけではない。


私たちが子どもと接するとき、子どもを導く、促すと言った言葉が使われます。


それは例えば、折り紙をやらせるのではないし、運動会の練習をやらせるのでもないし、友達と仲良くするよう指示するのでもないのです。


折り紙がやりたくなるように導き、運動会の練習がやりたくなるように導き、友達と仲良くできるように導くのです。


子どもにとってただやってみたくてやっただけの遊びの折り紙は指先への刺激となりそれは脳への刺激にもなり指先と脳の発達を促す。


楽しそうと思って遊んでいるだけの運動会の練習は全身の刺激となり四肢や全身の筋力、体力をつくる。ゲーム性のある競技なら協調性や競争心を学ぶ。勝ち負けは喜びや悔しさだとか、感情の分化も進めてくれる。


そういう子ども同士の関わりが、友達という存在や、クラスという集団に自分が所属しているという自覚へ導いてくれて、他人と自分が違うことを知り、それぞれが素晴らしいことを知り、自分も人も大切にされる存在なのだと気づくことになる。自分が認められていると実感できるから、だから友達を大切にできる。


こんなことを子どもはもちろん考えてなんかいないけれど、そういう経験が子どもの人格の土台を作ります。


子どもの心の発達を無視した保育……。


「廊下は歩きましょう」
なぜ走ってはいけないのですか?


子どもの心の発達を無視した保育をしているような現場にいる子どもは
「怒られるから」
とでも言うでしょう。


子どもが「これをやったら怒られる」という思考をしている様子は、その子を取り巻く環境が、大人の姿が、垣間見て取れます。


人は孤独を感じることがあっても、健康に生きていくには人と関わらずしては無理です。人間は高度な発達と技術の進歩を得てしても、誰かと関わらないと生きられない。


生きることは人と関わること。
人と関わるには健康な心が必要です。
私たち保育者は、その土台づくりをしているのです。














◆おわりに

そういうことも含めて、家庭でやってた子育てなんじゃないの? と思う人がいれば、まあ、そう思うなら、それでいいです。保育の専門性についての私の説明が下手だったということです。


核家族化や、犯罪の増加による地域の人との関わりのなさ、そういうものがかつて子育ての一端を担っていた時代とはもうちがいます。


子どもは家庭と学校、家庭と塾、家庭と保育所、などと関わる環境が限定されがちな時代です。


私たち保育者はプロとしてやってます。
ただ子育てを手伝ってるんじゃない。
子どもの健康な発達を支援しているのです。



いつか、保育士が、「先生」と呼ばれるにふさわしい人間でいっぱいになるといいです。
そうなれば、あんなひどいことを言われなくて済むでしょう。とりあえず日本の福祉関係全般の給与が低いのも、人材育成からやり直して、なんとかなるといいですな。